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本海獅子舞番楽

国指定重要無形民俗文化財
本海獅子舞番楽
(ほんかいししまいばんがく)

獅子舞と番楽について

 本海といわれるのは、本海坊という修験者の名に由来する。初め京都醍醐寺三宝院末に所属したが、寛永年間(1624年代)獅子舞や神楽を携えて鳥海山麓にやってきた。本海坊が各地に伝授したのが、山伏神楽といわれるものであった。
 鳥海山北麓の村々の各地には獅子舞番楽が伝承されている。それもそのはず、鳥海山信仰と切っても切れない関係を持つこの舞は、神社祭礼はもとより、虫祭り、虫追い、二百十日、作祭りなどの時々に舞われ、恒に五穀豊穣と人びとの安康を祈るものとしたからである。
 獅子舞番楽は他の番楽舞と異なり、獅子舞そのものに最も重きを置き、必ず番楽諸曲に先立って舞われるという特色をもつ。獅子舞の演舞は動作が激しく、上下の歯を打ちあわせる歯打ちがある。この獅子舞の威力は火難除けや疫病鎮撫に効験を顕すとも信じられていることから、獅子舞だけで門付けされて舞われることもある。そのため獅子頭そのものに神名があるとか、明暦4年(1658)の銘を持つものなど、代々にわたって尊重に伝えられてきたのである。
 番楽諸曲には、翁や三番叟など儀式的な舞である式舞、神事的な神舞、信夫太郎・矢島小弓などの武士舞といわれるもの、橋引き・若子などの女舞、品ごき・可笑(おかし)などのハンド舞という狂言風の舞があり、他にも猿楽や能にも似た要素を持つ古風な舞が多彩に演じられてきている。
 四百年近くにわたり伝承されてきた背景には、信仰に支えられてきた獅子舞講中という組織がそのひとつの力となっているであろう。獅子舞番楽の伝承に若者は欠くことのできない伝承者であるが、一端講中に入ると舞や囃子はもとより精神的な修練の場でもあった。いかに信仰的であったかがわかろう。このようにして子々孫々に受け継がれてきたことは、誠に貴重な民俗文化遺産ともいってよいだろう。

三番叟

信夫

番楽太郎

伝承団体

・上百宅講中【かみももやけこうちゅう】
・下百宅講中【しもももやけこうちゅう】
・上直根講中【かみひたねこうちゅう】
・中直根講中【なかひたねこうちゅう】
・前ノ沢講中【まえのさわこうちゅう】
・下直根講中【しもひたねこうちゅう】
・猿倉講中【さるくらこうちゅう】
・興屋講中【こうやこうちゅう】
・二階講中【にかいこうちゅう】
・天池講中【あまいけこうちゅう】
・八木山講中【やきやまこうちゅう】
・平根講中【ひらねこうちゅう】
・提鍋講中【さげなべこうちゅう】

 本海獅子舞や番楽では必ず幕が用いられ、幕の意匠も美的にみることができる。素材は木綿が多いが、なかには麻、苧(からむし)で織った古風なものがある。藍染めや草木染めによった幕には、地域に伝わる伝承技法が発揮されたものだろう。幕は通常、民家の座敷で演じられるときに、部屋と部屋の間に張り、観客と楽屋を分けてあたかも結界をつくる役目を果たしている。演者は、幕の真ん中からたくしあげて出てくるもので、幕脇の隙間から出るということはない。番楽幕ともいってきたように、幕は番楽を象徴しているかのようである。だから、一年でも限られた期間だけ演じることになっていることでも、その年初めて演じる日を幕開き、そして最後の日は幕納めといって、その時には演じる舞曲が定められていて、儀式的な要素が強くみられるのである。

山伏神楽・番楽系について

写真:山之神(猿倉講中)

 山伏神楽は、東北地方の霊山とされる山岳を中心に宗教的活動をした山伏(修験者)が、獅子頭を神の権現として奉じ、神社祭礼や、霞(かすみ)中の山伏神楽系の舞で、晩楽、萬楽とも表記されてきたが、今日では番楽にほぼ統一されている。同じ修験系神楽でも番楽と呼ばれているのは秋田県と山形県の北部に限られている。表十二番、裏十二番、それの陰陽として四十八番という演舞があったもので、ほぼ決まった演目を最初におこない、次は順次その時々に合わせて演じることから番楽といったと考えられる。能舞に近い翁舞、三番叟など式舞のほか、伝記物語を題材にした武士舞のほか、女舞、風流舞、狂言舞などの多彩な演目で構成されている。囃子(はやし)方は太鼓、鉦、笛が多く、なかには三味線の入るところもあり、舞方にも囃子方にもそれぞれの家柄と世襲制もみられた。幕を神前に張り、そこから出入りして舞うもので、幕にも様々な意匠がみられる。番楽をその年に始めておこなう日を幕開きといい、終わりの日を幕納めなどといっている。台詞は言立本(いいだてほん)というものに記されるなどしてきたが、狂言舞には台本にはない台詞も多く、その場で即興的に語られることが多い。

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