県指定無形民俗文化財
赤田大仏祭り(あかただいぶつまつり)
開催地 本荘
赤田大仏の開眼供養の神輿行事を伝えたものといわれており、8月21日と22日に祭りが行われます。是山和尚創建の長谷寺の壇徒と神明社の氏子が一体となり行う、神仏習合の珍しい祭りです。21日、大仏の御正体が長谷寺から神明社に渡ります。翌22日に住職、神官、氏子らに加え、是山和尚が伝えた芸能が行列を組み長谷寺へ戻ります。還御の行列には、赤田獅子舞、柴野獅子舞、山田獅子舞、平岡獅子踊り、北福田のシャギリ、岩谷町獅子舞、赤田シャギリなどの是山和尚が伝えた芸能が加わり、途中芸能を披露しながら長谷寺に戻ります。
神仏習合
赤田大仏祭りは、神仏習合の祭りといわれている。神仏習合とはいったい何か。
そもそも神仏習合とは、日本土着の神祇信仰と仏教信仰が混淆し、ひとつの信仰体系として再構成(習合)された宗教現象をいう。仏教が伝来すると最初は仏を蕃神(はんしん)と認識していた。しかし、次第に仏教者からは、神は迷い苦しむ衆生の一類だとみなし、神前読経により解脱されるべきだととなえられた。一部ではすぐに習合が始まったともされ、神仏の混淆思想が広まる。そうした考え方により習合儀礼も発達して、やがて修験道に影響を及ぼし、古来より固有の山岳信仰と仏教が融合していった。平安時代は神仏習合の基調理論となる本地垂迹説が発生する。つまり仏は神の本地であり、仏は衆生を救うために仮の姿をとってこの世に現れているのだ、とするものである。
これは江戸時代まで引き継がれていく。しかし、神仏習合の風潮の一方で神事においては仏法を忌避すべき観念もあり、平安時代すでに宮中の公祭などでは神仏隔離の制度が起こり、これが慣習ともなり地方神社祭祀まで広まって、ついには江戸時代末まで継承された。江戸時代は神仏習合に対して、儒教も加わり、神儒仏の三教論も出されるなどしたが、依然と神仏習合の趨勢は変わらない状況から、国学が勃興して排仏的風潮も起こる。
明治維新の慶応四年にはこうした神仏習合は一応の終焉を迎える。江戸時代に醸成された排仏思潮を受けて維新政府が神仏判然令を布告することにより、結果的に神仏分離がなされたのである。だが、長い間の神仏習合が民衆に浸透してきたこともあって、根強い神仏習合儀礼が今に伝えるところもあるのだ。